光悦と樂道入 -二つの樂茶碗、二人の交友- 2010年2月10日(水)

コラム:光悦と樂道入 -二つの樂茶碗、二人の交友-

光悦と樂道入展の感想や、なぜ光悦茶碗に共感できるのか、光悦写しについて。

【感想】

「光悦と樂道入 ~二つの樂茶碗二人の交友~」展が2006年9月12日に楽美術館で開催されました。
道入からは、「これだけ作ることができるなら、さすがに食べてゆけるわな。」と納得できました。
光悦からは、「あっ、このポテッとした感じ・・・。これで飲めたら最高やな。」と体感できました。

光悦茶碗を評するに、「造形の自由さ」が強調されがちですが、本人としての感想はどうだろう? 興味津々です。

使ってこその物のはずなのに、ケースに入って見るだけなのにおもしろい!
ただただ活き活きとして、ぐっと飛び込んでくる茶碗。
道入との対比も面白かった。

光悦の茶碗を日常に使えそうなものには見えない分、樂家の系統と、光悦との刺激を経て、用途を満たす茶碗をつくった道入。
美として作った光悦と、用途として作った道入。
そこに同じ時代、同じものを見て、全く違う芸術を作りあったという素晴らしさがここにあるんじゃないかと思った。

その後、宗入は道入の用途の美ではなく、光悦の造形の美に対して熱いまなざしがあったんじゃないかと感じた。

【なぜ光悦茶碗に共感できるのか】

光悦は日常の造形と重なる造形であるから、人々がより共感するのではと思った。
例えばエミール・ガレの昆虫。
光悦の場合、子どもの手の丸さとか、壺にたまった水のやわらかさとかの、自然のどこかで見慣れている情景だからではないのだろうか。
皆がごく自然にいとおしいと思うもの。
ここに、人工物、作られた美に感じるよそよそしさがない原因ではないだろうか。

普段に日常でよく見ている形が芸術品としてあるから、心の敷居を感ずることなく誰もがダイレクトに共感できる。
人を選ぶことなく、感動させることができるのが、光悦の素晴らしさではないかと思った。
どうってことないけどみんなを魅了するすごさが光悦のすごさであり、そこから来ているのではないか。

【光悦写し】

単純に、この人のようなものを作りたいと思って、真似ることは、出発点。
ただ、光悦写しをする場合、技の門から入ると道に迷ってしまいそうです。
外面のラインを追ってみても、わざとらしくなりすぎる。
一生懸命、釉薬を削ってみても、どうもしっくりこない。

大樹から生えている無数の葉を一枚一枚検証しても、答えじゃない。
そんな感じです。
ただ、その無限のバリエーションの元ネタをこっそり教えてもらうためなら、ぜひ写しをする必要があると。
きっと。

そこで、仮説を一つ作りました。
『光悦茶碗の本質は、光悦の思い。形状、重さなどの茶碗の要素は、思いの美的表現の結果。光悦は、技の門から入ずに、心の門から入って作陶していた。』

すると、
『光悦が、光悦の心の門から入ったことに習って、作陶者が作陶者自身の心の門から入るのならおもしろい。作品のデキは等身大になるはず。どんなにへたくそでも、等身大の方がミソ。作陶者自身の作陶の道ができ始めていることの方がポイント。これが写しの奥義、意義である。』と理解しました。

この仮説と理解を前提にすると、光悦は作陶初心者にもぴったりな先生だと思えてきました。
楽しく光悦から入り、そして、楽しく光悦に終わる・・・。
なんだかとてつもなく素晴らしい先生と出会えたようで、ニヤニヤとしながら、会場を出ました。

2010年5月27日 内容追加

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